経営基盤強化の支えとなった同友会と障害者雇用

2007年10月5日

神奈川県中小企業家同友会

障害者問題委員会 準備会にて

60分間

東京中小企業家同友会 障害者委員会 望月優

中小企業家同友会との出会い

2002年の11月、第11回東京経営研究集会の分科会で障害者をターゲットにしたビジネスの話をして欲しいという依頼を受けました。

これが東京同友会との出会いになりました。

翌月の12月には経営研究集会の分科会に声をかけていただいた会員が所属する豊島支部に入会しました。

そして、当然のごとく障害者問題委員会に参加するようになりました。

自分自身が障害者なので、この委員会に参加することは自分が当然果たすべき役割のように感じていました。

私の経営者履歴

1.会社設立の経緯

私は1982年から1985年までの4年間、千葉県柏市の麗澤高等学校で英語の非常勤講師をしていました。

私の授業では板書はせず、生徒と英語で問答をする形で進めていきました。

その教員生活時代に、コンピュータの可能性を感じ取りました。

などからです。

そこで、コンピュータを勉強することを決心し、英語講師を辞して所沢の障害者向けの職業リハビリテーションセンターに入所しました。

そこで1年間勉強した後、

または

を目指しました。

結局、就職はかなわなかったので、「コミュニケーションサービス」という屋号で視覚障害者のパソコンサポートをする事業を1987年12月に始めました。

当時の私は、「自分が飯を食えること」を足場の目標にしていました。

2.小規模な家業時代

1989年2月に、株式会社アメディアとして登記しました。

それは、一人目の社員を雇うことにしたからです。

1989年3月1日付けで、全盲の女性社員を一人雇いました。

社長の私が全盲、ただ一人の社員も全盲という状態で、株式会社アメディアは船出しました。

その後、売上が徐々に伸びていくにつれて少しずつ社員を増やしていき、1995年には社員数7名(うち視覚障害者3名)になっていました。

この時期は、社員全員が家族のような雰囲気で和気藹々と仕事をしており、賃金が少なくてもほとんど不満が出ないような体質でした。

私も社員と友達のように振る舞い、「社長」の自覚がない時期だったと言えます。

3.企業へのステップアップの試み

1995年4月に、現在の新宿区西早稲田に事務所を移転しました。

そろそろ、企業として飛躍したいという願望が強くなってきた頃でした。

そんな中、Windows95 が発売され、視覚障害者にはこれまでのパソコンの使い方ができなくなって大きく不便になった一方で、パソコンの土台の性能がぐんと上がったという状況になりました。

そこで、調査してみると、かねてから多くの視覚障害者が望んでいる印刷物を読み上げる読書ソフトの開発が我が社でも可能なのではないかということになりました。

そして、読書ソフトの開発に着手し、1996年9月に「ヨメール」という名称で発売しました。

この「ヨメール」は大変ヒットし、1996年度の売上は前年度の2倍を越えました。

4.豊満経営で衰退

この大幅な売上増で、企業としての発展の道筋が見えてきました(と感じました)。

さらに売上を伸ばすべく、1998年には福岡に九州支社を設立し、開発スタッフも一気に二人増強しました。

しかし、製品の開発は思うように進まず、また、売上も思うように伸びませんでした。

かくして、1998年以後、有能な社員が多数離脱し、赤字幅はどんどん拡大して会社は衰退の一途を辿り始めました。

5.復活へののろし

2001年7月に当時の主力商品「ヨメール」の主任開発者が退社し、開発中の「ヨメール」Version5 がもはや開発できないかもしれないという危機にさらされました。

何とか残った二人の開発者でこれを完成させ、11月に Version5 を発売することができました。

これが開発できなかったなら、「商品至上主義」の当時の私の経営力では間違いなくアメディアは倒産していました。

さて、私と同友会との出会いは2002年の11月でした。

その後、例会や懇親会などで経営者仲間と話をする中で、自分よりももっと苦しい体験を乗り越えてきている仲間が大勢いるんだということを知りました。

そんな中、2003年の11月に経営指針の1泊研修を受けて、もっと大幅に変わらなければならない自分自身に気付かされました。

その後、2004年5月からスタートした豊島経営塾に参加し、2004年10月には経営基礎講座、2007年1月には経営指針成文化セミナーなど、同友会の主催する経営の勉強会にどんどん出るようになりました。

同友会に入って学んだことは、

などです。

こうして、以前は「会社の成功度は商品の質」と考えていた私は、「会社の成功度は経営の質」と考えを改めました。

6.アメディアの障害者雇用

株式会社アメディアは、視覚障害者向けの製品を開発・販売しているということ、そして、私自身が視覚障害者であることから、設立当初から視覚障害者の社員はたくさん雇用していました。

実は、社員が大量に退社した時期は、1999年春と2001年春から夏の2回に渡って起きたのですが、この時期まではおおよそ社員の半数弱が視覚障害者でした。

そして、それは、私がまだ経営者としての自覚がなかった時期であり、退社していったうちの健常者は会社の将来を見切って、視覚障害者は友人だった望月優と喧嘩別れするような形で辞めて行きました。

私にとっては、視覚障害者が業務上戦力になることは会社設立当初から当然のこととして受け入れていました。

視覚障害者向けの製品を開発し、視覚障害者に販売しているのですから、どなたが考えても有能な視覚障害者が戦力になることは理解できるでしょう。

ですから、私の会社では、視覚障害者の雇用は「障害者雇用」の範疇と考えるべきではないのかも知れません。

現に、1999年から2001年にかけてアメディアから離れていった5名の視覚障害者も、非常に力強い戦力となっていたのです。

現在は、視覚障害者一人と精神障害の人一人を雇用しています。

視覚障害者はプログラム開発を行なっており、会社の危機のときに踏みとどまってくれた社員の一人です。

精神障害の社員は東京同友会板橋支部会員の社会福祉法人JHC板橋会の就労支援部門「ワーキングトライ」から紹介された人です。この人は、勤めはじめてから2年半になります。

視覚障害者以外の障害者を雇用するのは始めてだったので、私にとっては始めての障害者雇用に匹敵する経験でした。

そのため、ワーキングトライさんが間に入ってくれていることが大きな助けとなっています。

当初はメールマガジンの編集担当として採用したのですが、今では、これに加えて、

などなど、カバーする業務領域がどんどん増えてきています。

私にとっては視覚障害者を戦力として雇用することはもともと至極当然のことでしたので、2年半前に入社してきた精神障害の彼をより強力な戦力に育てていくことが、株式会社アメディアの経営体質を強化する要因になっていると感じています。

東京同友会障害者委員会、現在の取り組み

東京同友会では、随分以前から障害者問題を扱う部会・委員会がありました。

私が参加したのは2002年12月ですが、活動としては、1981年の国際障害者年の頃から行なわれていたと聞きます。

さて、最近の活動についてお話します。

東京同友会では、毎月第4火曜日に委員会を開き、活動の具体的内容を決めています。

また、昨年度は、この委員会のときに1時間ほどをミニ学習会の時間に当て、「障害者と仕事」というテーマで仕事を行なうに当たっての障害特性を勉強してきました。

2005年から毎年障害者雇用アンケートを行ないながら、障害者に対する関心を東京同友会の中で広めつつあります。

例会は随時企画していますが、他支部との合同例会を積極的に受けるようにしているため、かなり不定期になっています。

今年度のテーマは、「障害者の働き方から人間尊重の経営を模索する」です。

一つのイメージ・ストーリーとして、

という流れが私の頭に思い浮かんでいます。

上の流れは単に一つのストーリーであり、より多くの事例を学び、障害者を雇用して戦力化していく実践を積み重ねることにより、より具体的で明確な「人間尊重の経営」を実現するストーリーが見えてくると信じています。

戦力にできない障害者雇用は、雇用主側にとっても現場にとっても、そして障害者本人にとっても不幸です。

その意味で、「障害者の戦力化」は、健常者・障害者双方社員の自己実現を後押しするのみならず、同時に私達の経営基盤を強くする実践でもあると思います。

来年の障全交に向けて

来年、2008年9月に、東京で第14回障害者問題全国交流会を行ないます。

東京同友会の障害者委員会としては、この行事に向けて、近隣の同友会の障害者委員会との交流をできるだけ深めて行きたいと考えています。

株式会社アメディア

〒176-0011
東京都練馬区豊玉上1-15-6
第10秋山ビル1階
電話:050-1791-2070
FAX:03-3994-7177

望月優へのメール

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